広島県の湯崎知事が、全国民に一律給付する10万円に関して県職員が受け取った分を県内事業者の休業支援などに活用する考えを示したことについて、ツイッターやらメディアではいろいろと物議を醸しています。
結局政治にかかわるとこうしたバッシングなんて当たり前と覚悟しなければならないんだな、と改めて感じます。
その一方で、すべての人をひとくくりにするのも本当はおかしな話なのかもしれませんが、みんなやることはやっているんだろうか?と疑問を感じます。
ツイッターでこういった意見をつぶやいているのも普通に暮らしている方々、そして「外出自粛せよ」といわれているのに平気で街中をうろつき、街の混雑を作っているのも普通に暮らしている方々。
この2種類の人物が完全に一致している人たちなのかどうかを判断し切ることは不可能です。しかしだからこそああやって一つの意見にバッシングを浴びせる人たちの意見の意味に疑問を感じます。
ツイッターなどのSNSが発達し「みんなが言いたいことが言える世の中になった」といわれていますが、私は当初からその言葉自体に引っかかるものを持っていました。おそらくそれこそがこれなんでしょうね。
正直この姿が、本来あるべき姿に即しているか、そうでないかを私には断定できません。そもそも私だってこうして本名を明かさずにブログなどツイッターなどといったもので発信を行っているわけですから、大層なことは言える立場ではないでしょう。
でも、自分の中で一つ思うことがあります。それは自分自身に問うてほしい、ということ。
東日本大震災以降、よくニュースで地震速報などで「自分自身の身を守る行動をしてください」という通達が出るようになりました。
つまりは、人に頼ってばかりではいられない状況がすぐそばにあり、今この時点でやっておくべきがあるということです。
なにかに対し思いを告げることも必要ですが、それに対して自分がそういえるたちばにあるのか。やるべきことをやっていっているのか。
先程言った不確かな関係の中で、もし両方の立場に合致している人がいるのなら、改めて考えてほしいと思います。
昨日発表した「家キャン」体験についてですが、改めてこれについてもいろんなことを考えていました。
カタい話ばかりですみません。実は火をつけるところでつまずいてしまい、アッと今にその場を引き上げてしまったために「楽しい」と思える瞬間なんて、まったくありませんでした。
「何をやっているんだ?」って感じでしょ。「ボーっとする」楽しみを見出すのが目的だったはずなのに…
つまりは火がつかなくったって、その場で椅子に座って景色を眺めながら「いい天気だなぁ…」と気持ちよくなるのだって、立派な楽しみだったなと改めて思ったのです。
そう考えると「火をつける」というところにこだわってしまった、という反省に関して、自分はずいぶんステレオタイプに流されているなという気がしました。
もちろんいろんなチャレンジという面もあったので、失敗が引っかかったという点は当然あってしかるべきだと思っています。
ただ、結局「自分は、これを何のためにやるのだ?」という原点、究極的な思いって、忘れがちなんだということを改めて感じました。
「キャンプ?」火をつけるのが当然だろう」という典型的なイメージや、巷に出ているあまたのキャンプ用品、キャンプのビジュアルイメージに流されて「ここでは火をつけなければならない」と自分が考えていることにフッと気が付き、正直違和感をおぼえました。
サクラはもう時期を過ぎましたが、うちの方ではその後に続く山桜の季節を迎えており、結構きれいに咲いている桜の木がたくさんあるんです。
また、山の方からはよくウグイスの鳴き声を聞いてほんわかしたり。あ、「ウグイス」と聞いて河井案里議員が思いつく人、メディアに属され過ぎですよ、という私も今ふと頭に思い浮かんできましたが(笑)
自分的にD.I.Y.という思いが芽生えたのは、実は下の『はじめてのDIY 何でもお金で買えると思うなよ! 』という本がきっかけでした。
実はこれ、タイトルや内容より表紙のカワイラシサがきっかけで書店で手にしたのですが、先程思った原点って、今から考えると実はこの本から受け取ったカルチャーショックからだったなと思います。
形よりも、まずは目的。ちょっと温かな春の日にでも当たりながらまた考えてみたいと思います。
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