つぶやき:アウトドア・エンタテイメントへの提言

「ああ、そういえば嵐って今年いっぱいで活動休止って言っていたけど、どうするんだろ?オリンピックのアンバサダーという役回りで結構いろいろあったよなぁ…」

昨日の朝、ふと思いました。東京でライターをやっていた頃はやっぱりジャニーズという、メディアとしては引きの強いところもあり、何かイベントがあると取材に行っていただけに印象深いところでもあり、そんなことでもなにか気になるところはあります。


しかしそんな活動を自ら終えようとする人がいる一方で、例えばミュージシャンやタレントなどという職種の方々が悲鳴を上げています。特にライブハウスでの活動や集客イベントを生業としている方々。人前で自身のパフォーマンスを見てもらうことこそが仕事なのに、そういった場所を得ることができず、まさに自身の居場所を失われ困窮しています。

思えば東日本大震災直後もそうでした。「自粛」という言葉が蔓延し、アーティストたちはおのずと自分たちの社会における存在意義を大きく問われることになり、こぞって「チャリティライブ」をうたいステージに立つ人も少なくありませんでした。しかし今度はそのステージすら見せられない。さらにその存在意義を問われることになり、多くの人たちは悩むことになるでしょう。

ここで一つ言いたいのは、大いに悩んでほしい、ということ。単に自分の好きなようにプレーできる環境では、おそらく新しいものを生み出すことはできません。果たして自分が作り続けていること、プレーしていることは、他人にどんな影響を及ぼすだろう、そして自分の作っているものは、結果的に世の中に向けて必然的に生まれてきたものなのだろうか、と。それが無ければ、ただカラオケハウスで楽しむために飲みながら歌っているのと同じ、それが例えば人前でプレーする意味にはつながらないと思うのです。

そして一つ思ったのですが、例えばストリート・ライブという機会をある程度合法化していくという案です。日本では基本的にストリート・パフォーマンスというのは違法行為、一部ヘブン・アーティストという制度の枠の中でプレーすることができたり、また何らかの大きなイベントの括りの中でプレーできるのみと、屋外でプレーする機会というのは限られています。


2009年に日本語版も刊行された「地下鉄のミュージシャン ニューヨークにおける音楽と政治」という本があります。これは社会生活におけるストリート・ミュージシャンという立場がどのような影響を及ぼしているかをアカデミックに検証した論評的な内容となっています。この本では、アメリカ・ニューヨークではある程度の管理制度はあれど、ストリートでプレーするということを認められている部分があるという実態の中でさまざまな状況を検証しています。

そういった認識を、日本でも持ってみてはいかがかと思うのです。存在意義という意味ではお金を生み出すということももちろん必要ではあるかもしれませんが、例えばストレスフルになった社会の中で、人々の気持ちを癒したり力づけたりすることだってそれは意義だとみんなが思っていることでしょう。いや、逆にそれこそが大きな存在意義であるはずでしょう。

それも無機質に音源を流すだけでなく、生の演奏を見せるのは非常に大きな違いがあると思います。そういう意味で例えばある程度場所を決め、周辺に対する影響を考慮した上で管理された時間の中でプレーできる場所を確保する、いやいっそ行政がそういった活動を支援していくというのは、街を活性化していく上では一つ有効な施策ではないかと思うのです。またライブハウスでは飲み物が飲めなければライブを見ることができません。小さな子供なんかは大人連れでないとプレーを見ることができませんが、ストリートならもっといろんな人が身近に音楽に触れる機会ができるでしょう。

また、現在世界的に置かれているコロナ・ウィルスの影響などで、今後閉塞空間でのそんなパフォーマンス活動というものには大きな足かせがはめられることも考えられますが、屋外でのプレー、パフォーマンスというのは少し利点があるのではないかと思われます。

当然、これまでストリート・パフォーマンスというものが抑え込まれていた状況にはさまざまな理由もあったことでしょう。しかしさまざまな利点が考えられるのであれば、そういったアイデアを具現化する動きもあってもいいのではないか、という気もしています。

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